マッチアップに関する一考察 〜日常生活からフットボールまで〜  

2014年11月23日
「マッチアップ」というキーワードは、サッカーの解説や評論においても頻繁に用いられているため、我が国においても一般的になってきたように見受けられます。

今回はフットボールにおける「マッチアップ」に絡めて、日常生活での「マッチアップ」について感じる所を述べさせて頂きたいと思います。



「マッチアップ」でNFL観戦に臨場感を

仮に自分があるNFLチームの先発CBであると想像してみましょう。


次の対戦相手はデトロイト・ライオンズ。守備コーチから「今度のゲームプランでは、お前がメガトロンとマッチアップする事になる。とにかく頑張れ」と言われました。もちろん「メガトロン」とは、現在のNFLでは無双のWRカルヴィン・ジョンソンの事です。


その選手の心持ちでメガトロンのハイライトを御覧下さい。

今度は次の試合がデビューとなる若手OTである事を仮定してみましょう。


次の対戦相手はボルティモア・レイヴンズ。攻撃コーディネーターから「お前の対面(トイメン)はテレル・サッグスになるからよろしく頼む」と言われました。


以前ほどのハイパー感は鳴りを潜めていますが、やはりNFLを代表するプレミアムなOLBに変わりはありません。その点を考慮して、サッグスのハイライトをどうぞ。

Source:T Sizzle – Terrell Suggs on YouTube.com

 

 

こんな事を言い渡されたとすると、試合までの一週間で彼等が寝不足ないし胃痛とも戦わなければならなくなるのは想像に難くないでしょう。しかも、ひとつのポカが試合の趨勢を決しかねないポジションを担当している分、このプレッシャーに拍車をかける事と思います。


こういった「マッチアップ」時の選手の心情を汲み取ってあげると、画面越しのテレビ観戦にも臨場感というスパイスがかなり効いてくるかも知れません。
とかく集団戦術の妙に注目されがちなフットボールという競技ですが、このような「マッチアップ」が準備した戦術を全部わやにしてしまう(※)事は多く見られます。現場でフットボールのチームを指揮されている方からも、その点について悩まされるという話を幾度と無くうかがっていますし…


(※)名古屋弁で「台無し、パーにする」の意味


その「マッチアップ」が厳しいという判断をもとに良い意味で「あきらめ」て戦術の断捨離を行うか、逆に「肉を切らせて骨を断つ」ではありませんが「マッチアップ」での犠牲を覚悟して敢えて作戦を断行するか…


どちらの選択がベターであるかはまさにケース・バイ・ケースですが、戦術における意志決定において「マッチアップ」が重要なファクターとなる事に疑いの余地はありません。


日常生活における「マッチアップ」について

今一度、辞書を通して"match up"の意味を覗いてみると「競争に関する組み合わせ」。やはり競技スポーツ全般にあてはまる用法ですよね。
それとは別に「2つのものが一致する」「合わせて完全なものにする」という訳も出ていました。こちらは日常の集団コミュニケーションにおいて鍵となる使い方になるような気がします。


皆さんは、日常生活を営む中で家族、職場、学校、趣味のグループなど何かしらの集団に属している事と思います。


その中でコミュニケーションをとる際に様々なトラブルがつきものではありますが、その主因は「個人-集団」のスタンスが起因になっているのではないでしょうか。


「自分と職場」「自分と家族」「自分とチーム」という具合に「個人-集団」のスタンスにコミュニケーションを委ねてしてしまう事から、誤解、盲信、遺恨、混沌、そして孤独感などの弊害を招くように思えます。相手が今現在持っている思考や感情ではなく、全体の「雰囲気」に意識を奪われてしまうのは、不定形の得体が知れない怪物を相手に戦うようなものですからね。


これらのトラブルをサラリと回避するためには、やはり1対1…つまり「個人-個人」のスタンスでコミュニケーションをとる事が近道ではないかと僕は考えます。


数学の話を挙げると、三元一次方程式(x,y,zの三種類の文字が式の中にある方程式)は、まずzの存在を消去して残りのxとyの二つだけで解き進める(消去するものはxまたはyでも可)のがセオリーです。1対1の状態を作る事で分かり易くなる好例ですね。


教科書で同じみの福沢諭吉先生と大隈重信先生はお互いの考え方を痛烈に批判し合う間柄でしたが、直接顔を合わせた事をきっかけに仲良しさんとなった歴史的なエピソードもあります。


完全な相互理解はやはり中々難しいものがありますが、お互いを「知る」事ならばハードルはかなり低くなるように感じます。「知る」だけでも、二者の間でスッキリする問題はかなりある気がします。


その上1対1で接していても距離が縮まらないようであれば、半分「あきらめ」てその距離で出来るコミュニケーションを選択すれば良い訳で…フットボールにおける「マッチアップ」の戦術選択と同じ感覚ですよね。


皆さんも、「上司と部下」「同僚と同僚」「先生と生徒」「友と友」「夫と妻」「親と子」「きょうだいときょうだい(※)」といった1対1の「マッチアップ」を再認識してみては如何でしょうか。


(※)性別に関係ない事を強調するために平仮名で表記

「マッチアップ」の極意

そして、1対1のコミュニケーションの根幹をなすものは


「目線を同じにする事」


これに尽きると思います。


社会的立場、役職、性別、年齢、能力など我々の思考や行動を規定しがちな要素をとっぱらって、お互いを尊重し合う気持ちがあるだけで十分…という事です。


先述の福沢諭吉先生が著書『学問のすすめ』の冒頭で引用された「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」は、江戸時代に醸成された封建的精神構造(支配者に対して卑屈になったり、下層市民の精神まで支配しようとする)が日本国内の生産性や創造性を損ねている、という批判を象徴したフレーズだと言われています。


そこで、僕が大好きな大河アニメーション『銀河英雄伝説』での「目線を同じく」した「個人-個人」の対話を描いているシーンをご紹介させて頂きたいと思います。主人公のひとりであるラインハルトとシュタインメッツ艦長とのやり取り(17:00ごろ)をどうぞ。


Source:第4次ティアマト会戦@ボレロ.wmv on YouTube.com

 

 

余談になりますが、このティアマト会戦の戦闘シーンではラヴェルによる『ボレロ』のフル演奏がBGMに用いられています。デスメタルやヒップホップ以上に、クラシック音楽が闘争本能をかき立てるパワーを持つという事も新たな発見でした。


次はマル・アデッタ星域会戦でのビュコック元帥とラインハルトとの通信シーン(30:00ごろ)をどうぞ。

Source:Battle of Marr-Ardetta on YouTube.com

 

 

軍隊や戦争という究極の封建的世界の中にも関わらず、お互いを尊重し合った上で対話する人々の姿が描かれている点で、この物語に惹きつけられている方も少なくないはずです。


誰かが頭を押さえつけて平たくするのではなく、自主的に対面する相手と目線を合わせる事が真の平等であり、それが本当の友情や愛情の根幹をなすものではないか…と教わったような気がします。


「マッチアップ」こそがフットボールの根幹

フットボールにお話を戻しますと、名伯楽と呼ばれるコーチや長年活躍している選手は、優れた戦術眼や運動能力を持ち合わせている事は勿論、チームの構成メンバーだけでなく対戦相手の気持ちさえも思んばかる能力があるからこそ高いパフォーマンスを発揮しているのではないでしょうか。
練習という側面からしても、チーム全体のコンビネーションを確立する練習は勿論重要ではありますが、やはりタックル、ブロック、パスを1対1で行うドリルこそがフットボールの根幹を作り上げると強調したいものです。共に練習するメンバーひとりひとりと向き合えるから、僕自身そういったドリルが好きなのかなーと感じます。


チームを構成するメンバーひとりひとりの気持ちだけでなく、マッチアップする相手の気持ちさえも汲み取る力を養っていけば、「フットボール人」としてワンステップ上に行けるような気がします。





僕が調髪をお願いしている美容師さんとはかれこれ十年以上のお付き合いで、痛い所も痒い所も含めて僕の歴史を御存知の方でもあります。その方がお店を移られたり独立された事に関係なく、現在完了形でお世話になってきました。


そして御覧になっているDr.FOOTBALLも、かつて所属していたフットボールチームでかなり厳しい時期を共にした盟友と二人三脚で作り上げています。「個人-個人」「同じ目線」に基づいたユルギナイ(B'zの歌詞っぽいですが…)「マッチアップ」の中に僕自身がいる事も、この記事で筆をとりながら再認識させられた次第であります。


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